歌舞伎と酒③『勧進帳(かんじんちょう)』

 歌舞伎と言えば『勧進帳』と言われるほどこの出し物は有名。弁慶が何も書いてない巻物を手に朗々と読み上げる場面は、歌舞伎を見たことのない人でも知っている。新聞記者が原稿を電話で送る時、手元にメモだけを置いて送る事を業界用語で『勧進帳』といっていた。このころはファクスがようやく使われ出したころで、B5の半分の大きさの原稿くらいしか送れず、設置してあったのも官邸記者クラブくらいだった。このため電話送稿は原稿を届ける大事な方法の一つだった。海外支局からはテレックスで送っていた。ローマ字で送り、アルバイトが日本語に直していた。このため、電話送稿と同じく、今でいう「変換ミス」がよくあった。最近の送稿は、パソコンに入力してから本社のコンピューターに送るようになっているので、『勧進帳』はすでに死語となった。
別の例としては赤塚不二夫の葬儀で、タモリが8分もの弔辞を述べたが、その原稿と思われる紙には何も書いてなかったという。後にそのことを指摘されたタモリは「おれのマネージャーの名前はトガシだ」と言ったとか。
 『勧進帳』の原型は、室町時代に成立した能の『安宅』。元禄15年(1702年)に初代市川團十郎が『星合十二段』という芝居に取り入れたものと伝えられるが、現在の型になったのはずっと下って天保11年(1840年)に河原崎座で上演された『勧進帳』。五代目市川海老蔵(七代目團十郎)が弁慶、後に自殺した八代目團十郎が義経、二代目市川九蔵(六代目市川團蔵)が富樫を演じた。
能をもとにしているので「松羽目物」といわれ、現在では定式幕を横に引いてあけるのではなく、緞帳を上げ、大きな松の絵を描いた背景(これを松羽目とか鏡板とかいう)にした能舞台に似せた舞台で演じられる。「松羽目物」は明治以降には頻繁に演じられるようになり『土蜘蛛』『茨木』『船弁慶』など能からとったもののほかに、『素襖落(すおうおとし)』『釣女』『身替座禅』『棒しばり』など狂言から取り入れたものも多い。
定式幕というのは、幕府公認の芝居小屋3座(当初は4座だったが、山村座は江島生島事件で廃座になった)にだけ許された引き幕。そのほかの芝居小屋では引幕を許されず、垂れ幕を使用したので「緞帳芝居」というのは格式の低い小屋のことをいった。そのころの緞帳は今のように分厚い立派なものではなかった。
3座の中で最も古いのは中村座で、猿若勘三郎(のち中村を姓とする)が寛永元年(1624年)に中橋に設けた。この幕は上手から柿色、白、黒(濃紺)となっていて、平成中村座でもこの幕が使われた。寛永9年に幕府の屋形船「安宅丸(あたけまる)」が伊豆で完成し、江戸に入る際、勘三郎に金の采配を賜り舳先に立って音頭を取るように命じられたが、その時の帆布を褒美に貰って幕にしたとも、日よけの幕を頂戴して幕にしたとも伝えられている。
・船頭も芝居も猿が始めなり
後に中村座の娘が市村座(座元は市村羽左衛門)に嫁ぎ、市村座でも中村座の幕が使えるようになった。しかし、白では汚れ場目立つので萌葱(もえぎ)色に染めた。そのため上手から柿色、萌葱色、黒となった。これは現在国立劇場で使われている。森田座は上手から柿色、黒、萌葱色(「茶くみ」と覚える)と、市村座とは順番が異なっている。明治になって森田座の座元、第十二代目森田勘彌が新富座を作り、後に歌舞伎座が明治22年(1889年)完成した時、森田座の定式幕を歌舞伎座に使用することにした。特に反対する者も出てこなかったので、これが定着した。
『勧進帳』は、兄源頼朝の怒りを買った義経一行が北陸経由で奥州の藤原秀衡のもとへ逃げる際の加賀国の安宅の関(あたかのせき、石川県小松市あたり)での物語。義経一行は武蔵坊弁慶を先頭に山伏の姿で通り抜けようとする。しかし関守の富樫左衛門のもとには既に義経一行が山伏姿で潜行しているとの情報が届いていた。疑う富樫に対し、弁慶は焼失した東大寺再建のための勧進を行っていると言い、富樫は勧進帳を読むよう命じる。弁慶は白紙の巻物を勧進帳であるかのように、朗々と読み上げる(勧進帳読上げ)。この時富樫は弁慶の後ろに回り込んで巻物を覗き込もうとするが、弁慶ははっと気が付いて見せないようにする。
まだ疑いを残している富樫は矢つぎ早に山伏の心得や密教の呪文について問いかけるが、弁慶は淀みなく答える(山伏問答)。この問答は、内容がよくわからなくても、両者の緊迫感あふれるやり取りに観客は圧倒される。富樫は納得して通行を許すが、部下のひとりが強力(剛力とも書く。山伏の下僕の荷物担ぎ)義経に疑いをかけた。関守と山伏は一触即発の状態でにらみ合う。その時、弁慶は主君の義経を金剛杖で殺さんばかりに叩く。それを見た富樫は通行を許す。富樫が本当にだまされたのか、だまされたふりをしているだけなのか、その解釈はいろいろあるが、最近は切腹も覚悟の上で見逃したとする解釈が主流となっている。
一行は安全なところに移り、弁慶は義経に涙ながらに謝るが、義経は弁慶の忠義と機転に感謝する。そこへ再び富樫が現れ、一行は気色ばむが、富樫は先程は失礼なことをしたと酒を勧める。弁慶は最初は盃で飲むが、こんな小さなもので飲んでいられるかと、葛桶(かずらおけ=能などで小道具として使われる黒漆塗りの円筒形のおけ。腰かけにも使われる)のふたでぐいぐい飲み干す。これを見ていると終演後酒を飲みに行きたいと切実に思う。酒のお礼に、弁慶は舞を披露する(延年の舞)。踊りながら義経らを先に行かせ、十分先に行ったころ、富樫に目礼し、後を急ぎ追いかける(飛び六方)。この六方の豪快さは見どころの一つである。
このくらい長い文章を『勧進帳』で電話送稿できれば一流の記者になれたかも......。