歌舞伎と酒④『仮名手本忠臣蔵(かなでほんちゅうしんぐら)』

 今年は歌舞伎座新開場杮葺落(こけらおとし)公演とあって、11月、12月と続けて『仮名手本忠臣蔵』を通しで上演する。11月は菊五郎、吉右衛門、梅玉、左團次などベテランの「吉例顔見世大歌舞伎」、12月は菊之助、海老蔵、染五郎など若手に幸四郎、玉三郎が抑えに回る「十二月大歌舞伎」という具合である。国立劇場では、「知られざる忠臣蔵」としてひとひねりした忠臣蔵関連の芝居を吉右衛門、魁春、芝雀などで上演する。
 忠臣蔵は「芝居の独参湯(どくじんとう=高麗人参の薬湯。起死回生の漢方薬として知られる)」といわれるほど、上演すれば大当たりをとる作品とされていた。仮名手本忠臣蔵は実際の事件を元に書き上げられた人形浄瑠璃。元禄14年(1701年)3月14日、江戸城松の廊下で、播州赤穂藩主、浅野内匠頭長矩が高家肝煎(きもいり)、吉良上野介吉央に切りつけた。これに対する幕府の処置は、内匠頭はその日のうちに切腹、お家断絶、上野介へはおかまいなしというものだった。これを不服とした赤穂浪人は翌元禄15年12月14日、本所松坂町の吉良邸に討ち入り、上野介の首級を上げた。
 劇化されたのは、翌元禄16年正月に江戸・山村座で『傾城阿佐間曽我』として曽我兄弟の仇討にかこつけて上演したのが最初とも、赤穂浪士が全員切腹した同年2月4日からわずか12日目の16日、江戸・中村座で『曙曽我夜討』として上演したのが最初ともいわれる。こちらは3日で上演禁止となった。
 7年後の宝永7年(1710年)6月、近松門左衛門作の人形浄瑠璃『碁盤太平記』が大坂・竹本座で上演。そのほかにもいくつもの義士劇が人形浄瑠璃や歌舞伎で上演されたが、これらを取り入れて集大成したのが二代目竹田出雲・三好松洛・並木千柳の合作の人形浄瑠璃『仮名手本忠臣蔵』である。寛延元年(1748年)8月に竹本座で上演された。歌舞伎として上演されたのは浄瑠璃初演と同年の大坂の中の芝居でのこと。江戸での上演はその翌年である寛延2年、奇しくも討ち入りから47年後。2月に森田座、5月市村座、6月中村座といったふうに、この年は忠臣蔵一色だった。

  歌舞伎は食べながら、飲みながら観るものだった。値段の高い桟敷の人は幕間に近くの芝居茶屋で酒や食事をしたり、席に弁当などを届けさせていた。他の安い席でも弁当などを自分で作って持ってきたり、売っている弁当、お茶やお菓子、果物などを買って食べた。菓子、弁当、寿司の頭文字「かべす」を食べるのが芝居の楽しみでもあった。新橋演舞場には「かべす」という店がある。

そのような歌舞伎の風習がある中で、『仮名手本忠臣蔵』の四段目「扇が谷塩冶判官切腹の場」は通さん場、お止めの場といわれ、人の出入りを制限し、酒肴をはじめ食べ物の運び込むのも禁止していた。さて、幕が開くと塩冶判官の屋敷の広間。判官の家来が話をしているところへ、御上使の石堂馬之丞と薬師寺次郎左衛門が到着する。2人の待つ広間に、塩谷判官が長羽織姿で現れ、「お酒でも一献」と勧める。薬師寺は、「御上意の内容を聞いたらお酒ものどを通りますまい」と嫌みを言う。

・堂と寺仏と鬼の両検使(石堂は仏、薬師寺は鬼)

・馬之丞さてひんのいい上使也(品のいいと馬の鳴き声)

・薬師寺はじろりじろりとねめまはし(次郎左衛門)

・名にも似ず薬師寺毒を吐きちらし(薬でなく毒をまく)

読み上げられた御上意は、領地と城の没収、その身は切腹というものだった。御上意を伝え終えた御上使を、なおも御酒で労おうとする塩谷判官に、薬師寺は、「切腹を仰せつけられているのに、当世流行の長羽織をぞべらぞべらと着ている」と悪態をつく。すると、塩谷判官は、すでに覚悟はしていると、羽織を脱ぎ棄て下に着用していた白裃(かみしも)の死装束姿となる。そして畳が裏返しに敷かれ、白い布がかぶされて、切腹の場面となる。

・判官で見るのは痛い芝居なり(判官の気持ちで見ると、腹を切るので痛い芝居となる)

 この世で最後に一目会いたい大星由良之助だが、なかなか現れない。「今生で対面ができず残念じゃと伝えよ」と力弥に言い残し、判官は腹に九寸五分(腹切り刀)を突き立てると由良之助が登場。石堂は「その方が由良之助か。許すぞ。近う近う」。近寄った由良之助に、判官は「待ちかねた」と言い、この九寸五分を形見にと告げて息絶える。

・三寸を見抜いて渡す九寸五分(由良之助の仇を討つという胸先三寸を見抜いて腹切り刀の九寸五分を渡す)

・判官の湯灌楽屋の風呂でする(湯灌は遺体を洗うことだが、判官役の役者は出番を終え楽屋で風呂に入っている)

この場面が落語にしたのが『四段目』、上方では『蔵丁稚』とも呼ばれる。芝居好きな丁稚がお使いに行った途中で芝居見物。これがばれて蔵に閉じ込められ、食事も抜きにされるが、中で判官切腹の場面を演じ始める。蔵の中だけに、本物の刀や三宝、裃などもあるので、それを取り出して演じているのを女中が見つけ、主人に報告、あわてた主人が食事を持って蔵に入る。主人「御膳(御前)ッ」丁稚「蔵の内(内蔵助=由良之助)でかァ」主人「ハハァ~!」丁稚「待ちかねたァ......」

もうひとつが『淀五郎』。初日を前に塩冶判官の役者が急病、座頭の市川團蔵は、目をつけていた若手の澤村淀五郎を抜擢する。ところが本番の「判官切腹の場」になると、由良之助役の團蔵は舞台に続く花道の七三で平伏したままで判官の近くに寄ってこない。幕が閉まった後、訳を訪ねると「全然ダメ。本当に腹を切れ」。思い余った淀五郎は、舞台で團蔵を殺して腹を切ろうと心に決め、世話になった初代中村仲蔵のもとに暇乞いに行く。仲蔵は判官切腹の正しいやり方を教えてくれる。翌日、淀五郎は見違えるほど上達していた。團蔵も感心し、花道から出て舞台の淀五郎の判官の傍で平伏する。それに気づいた淀五郎「待ちかねた」。

 両方とも「待ちかねた」を活かした落ちだが、この場面から、江戸庶民の間で「遅かりし由良之助」という言い回しが使われるようになった。「その手は桑名の焼きハマグリ」「恐れ入谷の鬼子母神」「びっくり下谷の広徳寺」「そうで有馬の水天宮」「そうとは白髭大明神」「腹がへりまの大根」などと一緒に、飲んだ時などに使ってみたらいかが。