2014年05月02日 12:27
今年のお花見はいかがでしたか。江戸の花見の名所は上野、飛鳥山、隅田川沿い、御殿山など沢山あったが、もうひとつ有名だったのが吉原。特に夜桜が名物で、遊郭だというのに女性の見物も許されていた。アムステルダムの飾り窓が男性ばかりでなく女性観光客の人気スポットになっているのと同じようなものだ。
その吉原の中央を通る仲の町は、桜の季節には花見の道となった。『東都歳時記』(天保9年=1838年、斎藤月岑)によると、寛保元年(1741年)の春に、茶屋の軒下に鉢植の桜を飾ったのが評判になり、翌年からは桜の木を移植し、花期が過ぎると抜き去るのが恒例になったという。延享2年(1745年)には桜の木の下に山吹を植えて青竹の垣根を廻らし、夜はぼんぼりに灯をともして夜桜も楽しむようになったとのこと。『江戸名所花暦』(文政10年=1827年)にも「毎年三月朔日(ついたち)より、大門のうち中の町通り、左右をよけて中通りへ桜樹千本植える。常には、これ往来の地なり」とある。電気のない江戸時代、夜は暗い町の中で不夜城と呼ばれた吉原では、ろうそくの明かりで桜を照らし、文字通りライトアップした光景は絶景であった。
・葉桜は捨てものにする仲の町
・花までも盛りがすむと置かぬ所(とこ)
吉原の遊女は27歳で年季明けとなる。
・桜から桜へこける面白さ(大川端の桜を見た後、吉原へ方向転換)
その花の吉原の三浦屋という揚げ屋の前を舞台にしたのが『助六由縁江戸桜』である。三浦屋の大夫揚巻とその間夫(愛人)曽我五郎が助六という設定である。侠客、あるいは大店の若旦那といわれる助六と、京・嶋原の傾城揚巻が大坂で心中したという話が、曽我物の一つとなり、江戸歌舞伎の代表的な演目になった。市川宗家の歌舞伎十八番の一つでもあり、現在でも上演回数は多い。
助六は市川宗家の口上(前の歌舞伎座の「御名残四月大歌舞伎」では市川海老蔵)から始まる。正徳3年(1713年)に2代目團十郎(俳号は栢莚)が山村座で上演したこと、寛延2年(1749年)にほぼ現在の形に固まったことなどが語られる。紫の鉢巻をしめ、尺八を腰にさし、傘をさして花道から出てくるといった型はそれ以来260年以上踏襲されていることになる。紫の鉢巻は病人がするもので、江戸紫には痛みを抑える効能があるとされていた。30年ほど前、布団業界が還暦のお祝いに紫の座布団を送ろうというキャンペーンをしかけたことがあったが、あまり浸透しなかった。なお、鉢巻が紫になったのは2代目團十郎の贔屓であり、助六のモデルともいわれる大口屋暁雨(札差で十八大通の1人)の好みに合わせたとのこと。
・助六は江戸一番の頭痛持ち
・助六は頭痛持ちかとせなぁ聞き(「せなぁ」は田舎青年)
・江戸紫は助六と文四郎(「文四郎」は鯉の異名。江戸の鯉は「紫鯉」といわれ、有名だった)
・雨降りにばかり助六出たと見え(いつも傘をさしているので)
・鉢巻をせぬと助六太神楽(「太神楽」は傘の上で皿などを回す芸をする)
口上では、次いで、舞台の三浦屋の格子の中にいる河東節のご連中に挨拶し、「河東節」の三味線と語りが始まる。
河東節というのは、十寸見河東(ますみかとう)が創始した浄瑠璃の流派の一つであるが、専業にするものは少なく、当時蔵前の札差などの間ではやり、現在では十寸見会というグループが三味線と唄を歌っている。その日ごとの出演者の名前が廊下に張り出されるが、作詞家のなかにし礼氏、歌舞伎座そばのナイルカレーレストランのG.M.ナイル氏などが会員となっている。
三浦屋の前で女郎衆が勢ぞろいし、花道から揚巻(坂東玉三郎)が酒に酔って出てくる。仲の町でお客から勧められて酔ってしまったとのこと。禿(かむろ=子供の遊女候補)から酔い覚ましの薬「袖の梅」をもらって飲み、舞台へと進んでいく。助六の母からの手紙を読んだりしているところへ、遊女白玉(中村福助)と髭の意休(市川左團次)が登場する。
揚巻に言い寄る髭の意休を、揚巻は手厳しく振って三浦屋の中に入る。そして河東節に乗って、助六(市川團十郎)が花道から登場。意休との対決があり、意休の子分のくわんぺら門兵衛(片岡仁左衛門)と福山(うどんや)のかつぎ寿吉(坂東三津五郎)とのけんかを買い、門兵衛とその子分の朝顔仙平(中村歌六)をやっつける。
朝顔仙平は、元禄(1688~1704)北八丁堀の藤屋有馬清左衛門の「朝顔煎餅」を擬人化したもの。この仙平の助六に対する啖呵に、その当時有名だったせんべいの名前を次々とあげているのが面白い。このころの煎餅は小麦粉と砂糖を練った甘いもの。ゴマや落花生などを混ぜて味を変えたりした。舞台の両脇に蒸籠が積まれている仲の町のお菓子司「竹村伊勢」でも巻煎餅を作っている。
・堅巻の文竹村の折を添え(巻紙に書いて固く縛ったお客への手紙に竹村伊勢の菓子折を添える。「堅巻」で巻煎餅をイメージさせる)
歌舞伎役者が副業として煎餅屋を開いた例も多く、四代目團十郎の「團十郎煎餅」をはじめ、初代松本幸四郎の「高麗煎餅」、八代目市村羽左衛門の「橘煎餅」(後に「翁煎餅」)、四代目松本幸四郎の「錦江煎餅」四代目岩井半四郎の「岩井煎餅」などがあった。
さて、意休の子分どもを追い払ったところへ花道に登場するのが白酒売新兵衛実は兄の十郎(尾上菊五郎)。十郎は弟助六=五郎の喧嘩沙汰をいさめる。
やっと酒が出てきたところで、続きは次回。
前回5月号の㊤では、白酒売新兵衛実は兄の曽我十郎(平成22年の歌舞伎座「御名残四月大歌舞伎」では尾上菊五郎)が登場し、弟助六=五郎(同市川團十郎)の喧嘩沙汰をいさめるところで終わった。助六が、その理由が、紛失した源氏の宝刀友切丸を探し出すために喧嘩を売り、刀を抜かせて調べているのだと聞き、それならば と、十郎も喧嘩を売ることにする。そして......。
まずは助六が通りがかりの侍と奴に喧嘩を売り、持った刀を改めてから股をくぐらせる。次いで新兵衛が同じことを要求する。次に出てくるのが通人里暁(中村勘三郎)。團十郎の病気回復や、長男海老蔵の結婚のお祝いを入れたり、菊五郎には長女寺島しのぶの結婚祝いを言ったりしたあと股をくぐる。花道では、歌舞伎座とはしばしのお別れだが、新しい歌舞伎座でもよろしくという挨拶を入れ、拍手と大向こうからの掛け声を受けていた。しかし、当の勘三郎と團十郎が2013年4月の歌舞伎座新開場までにこの世の人ではなくなったのは本当に残念だ。
そのあと、揚巻(坂東玉三郎)が編み笠の武士を送って出てくる。助六は嫉妬して怒り、編み笠を取ろうとして顔をのぞくと、何と母の満江(中村東蔵)。友切丸詮議の説明は受け入れられたが、喧嘩はするなと、激しく動けば破れる紙衣(かみこ=紙の着物)を着せる。
母と兄が退場し、助六と揚巻だけが残った三浦屋の前に、意休(市川左團次)が登場。助六は隠れるが、意休の悪口に我慢できず飛び出す。しかし、母の紙衣を着ている手前、手出しができない。意休は勝ち誇ったように説教をし、三又の香炉を切る。その刀が友切丸であった。
この時の公演では、揚巻が、意休の帰り道を待ち伏せして討とうと助六に耳打ちするところで終わった。
さて、お寿司の一つに「助六寿司」というのがある。稲荷ずしとノリ巻きとが折りに入っているもの。これは助六の愛人である揚巻からとったもの。稲荷の油揚げ、巻きずしとで揚巻である。寿司屋には弥助寿司という名が多いが、これは『義経千本桜』の三段目の鮨屋の段で、平維盛が「弥助」という名でかくまわれていたことから、これを名前にしたものだ。
歌舞伎のお供を「かべす」というが、菓子、弁当、寿司の頭文字をとったもの。菓子は前回、煎餅について書いたが、弁当といえば幕の内弁当がある。これは歌舞伎の幕間に観客が食べるために作った。もっとも、観客でなく幕の内側で役者が食べたとか、相撲の幕内力士である小結=小さなおむすびが入っているからとの説もある。『守貞漫稿(もりさだまんこう)』(天保8年=1837年刊)によると、円扁平(俵型)の握り飯十個と、おかずとして卵焼、蒲鉾、蒟蒻、焼豆腐、干瓢が入っていた。
目と耳と口の3つを同時に楽しめるのが歌舞伎のいいところだ。皆さんもぜひお出かけください。