落語と酒⑤『野ざらし』

『野ざらし』と言っても何のことかわからない人も多くなっているのではないだろうか。現代の日本社会で、人骨の野ざらしを見ることはまずないだろう。江戸時代にはよくあったそうで、隅田川に死体が流れてきたのを見た場合は川の中央に押し出して海に流れていくようにしていたという。人目につかない川岸に流れ着き、白骨化することは普通であったようだ。
 この噺の内容は、中に出てくる歌(サイサイ節)がすべてを語っている。
〽鐘が~ ボンとなりゃぁさ
 上げ潮南風(みなみ)さ
 カラスがパッと出りゃ コラサノサ
 骨(こつ)がある、サーイサイ」
〽そのまた骨にさ
 酒をばかけりゃさ
 骨が服(べべ)きてコラサノサ
 礼に来るサーイサイ
〽そら、スチャラカチャンたらスチャラカチャン! 
 骨にお酒をかけることが供養になって浮かばれるという話は、酒に霊力があるということの象徴である。酒を飲むと人間性が変わってくることなどが原因であろう。今でも三三九度の固めの盃、親分と子分、兄弟分の誓いの盃などにお酒が使われるのはそのためである。特に神前に奉げるとそのお下がりの酒はお神酒となり、一層の霊力を持つことになる。
 原作は中国の笑話集『笑府』。骨に酒をかけて供養したら、それが楊貴妃で幽霊となってお礼にきた。そのまねをしようと見つけた骨に酒をかけたら、それは張飛の骨で、オカマを掘られてしまったという話である。「妃」と「飛」が同じ発音「フェイ」であるところもミソ。
 この舞台を江戸に移して、若い女と幇間(たいこもち)に変えて、「何? 太鼓? 何だ馬の骨だったのか」(太鼓は馬の皮を張る)という落ちになるのが今の『野ざらし』。天保年間(1830~1843年)の2代目林屋正蔵(4代目までは「屋」、5代目から「家」になった)の作といわれている。これにサイサイ節を入れたり、文明開化の象徴ともいえる時計屋の鐘の話や歌を入れたりして、ほぼ現在の形にしたのが初代三遊亭圓遊(本当は3代目だが初代として定着している)である。
 圓遊は明治期の落語の大家三遊亭圓朝の弟子だが、鼻が大きかったので「鼻の圓遊」ともいわれ、また「ステテコ踊り」で一世を風靡したため「ステテコの圓遊」とも呼ばれている。師の圓朝とは正反対の芸風であったため、2人の葛藤は現代劇でも取り上げられ「すててこてこてこ」という形で劇団民藝で1985年に上演された。私も見に行ったが、大滝秀治演ずるまじめな圓朝と梅野泰靖のいい加減な圓遊とのやり取りが面白かった。『野ざらし』をこうやりたいのですがと圓朝の前で演じて批評をうかがうわけだが、「風もないのにがさがさと......」というところで圓朝が「前に上げ潮南風と言っているじゃないか」と矛盾を突いたところなど今も記憶に残っている。
 テープでしか聞いたことはないが、一番印象に残るのは3代目(実際には5代目ともいわれる)春風亭柳好。「野ざらしの柳好」と言われるほど軽妙な語り口が人気を集めたという。8代目桂文楽が「うまくはないが、あのはなやかさは何でしょうねえ」とほめ、「野ざらし」については「柳好を聞いてしまったらもう語れない」と以後、演じることはなかったという。現在では10代目柳屋小三治が十八番にしている。
 柳好は釣りをするところの描写がうまく、釣りが好きだったらしい。マクラでも、自身が参加している「釣り落とし会」の話から始めることが多い。落語家の会なので「釣り上げる」ではなく「釣り落とす」にしたということである。荷物を持っての釣り見物、浮きを見ながら首を動かす動作がなんともいえなかったという。
 柳好をはじめ、最近はこの話を最後までやる噺家はほとんどいない。オチがもともとあまり面白くないうえ、時代が変わって分かりにくくなったためだろう。柳好は骨を釣りに行って自分の口を釣ってしまい、「針なんぞいらねぇや」「あぁ、あの人は針なしで釣っている」というところで終わらせている。この話はストーリーよりも、途中経過や話し方で笑わせるようにできている。