落語と酒⑫『ガマの油』
2024年08月12日 12:34
『ガマの油』は、3代目の春風亭柳好が得意としていた演目で、寄席などで彼が高座に上がると廻りから「ガマ、ガマ」「野ざらし、野ざらし」と声が掛かったという。この二つを得意としていた落語家で、今CDなどで聞けるのはこの二つだけである。
30年ほど前、会社の旅行で筑波山の山頂近くに宿をとったことがある。この宿の女将さんが宴会の時にガマの油売りの口上をやってくれた。この口上、もともとは浅草の奥山で長井兵助(ながいひょうすけ、永井とも書く)が、居合抜きを見せながら歯磨きを売ったり歯の治療をしていたりしたのが、ガマの油を売るようになったという。現在、筑波山ガマ口上保存会がこの口上を伝えており、20代目永井兵助が活躍している。
浅草の奥山は今新しくなって、江戸情緒あふれる街並みになったが、江戸時代は両国広小路と並ぶ歓楽街だった。浅草寺の本堂の西側一帯である。浅草寺に詣でる人や、吉原に行こうという人が立ち寄った。ここで特に評判だったのが長井兵助の居合抜きと、松井源水の独楽回しであった。長井兵助は、高足駄に白だすきという目立つかっこうをして、三宝をいくつも積み重ねた上に乗って、4、5尺(1.2~1.5㍍)もある刀を抜いて見せたといわれる。なお普通の刀は刃渡りが2尺5寸(75㌢)程度である。
・さる人、友だちに出会ひ、「さてさて、けふはおもしろひ軽業を見てきたが、竹の上を下駄はいて、居合を抜く。手まりをつかふ。イヤモ、けしからぬことをする」と話さるれば、「なんの、それがめづらしいことがある」といわれける。「そんなら、あのやうなこと、してみや」といふ。「そのやうなこと、せいでか。おれは、ささの上で、喧嘩さへする」といふた。(無題「絵本初音森」)
口上の初めに、小さな棗(なつめ)を取り出し、その中に入っている人形を動かして見せる場面がある。そのからくり人形作りの名人として出てくるのが「京都にては守随、大坂にては竹田縫之助近江大掾藤原朝臣」。この竹田近江は和時計の職人でもあり、からくり人形を作るとともに、その人形を見せる興行もおこない評判をとっていた。その二男が竹本座の座元になった初代竹田出雲である。並木川柳、三好松洛との合作で「菅原伝授手習鑑」を作った人である。これは「義経千本桜」「仮名手本忠臣蔵」とあわせて人形浄瑠璃の三大傑作となり、また歌舞伎の世界に移されて大評判となったもので、いずれもこの3人の作品である。ただ、あとの二つは息子の2代目出雲である。歌舞伎に「けれん」といわれる宙乗り、どんでん返し、早変わり、本水使用などという演出があるが、このDNAはあるいはこのあたりに始まっているのかもしれない。
落語では、蝦蟇の油の口上をやってひと儲けした大道商人が、ちょっと一杯やっての帰り道、また両国広小路に通りかかる。まだ人の流れは減っていない。ではもうひと儲けしようと、始めるが、酔っているために間違いだらけ。紙を切って「1枚が2枚、2枚が4枚、4枚が8枚......」くらいまではいいが、「32枚が......」辺りからおかしくなり「64枚が......とにかくたくさんだ」。刀で自分の腕を切って見せるところで血が止まらなくなり、「いざお立会い、どなたか血止めを持っていないか」となる。
他人のやったことを与太郎がまねして失敗するという話はたくさんあるが、『ガマの油』では同じ男が酔っ払って失敗する。酔うと気が大きくなって何でもできるような気になるが、実際にはそうはいかないということを肝の銘じておいた方がいい。誰だ、他人事ではないだろうというのは。
25年ほど前、ある勉強会で江戸伝統工芸の一つとして独楽作りの名人のお話しをお聞きしたことがある。ろくろを回して作るのだが、木の密度などの違いから回転が安定しないことがよくあり、その場合は小さな鉄の球を埋め込んでいくという。その作成途中の独楽や完成品をいくつか持ってきており、話の終了後くじ引きで参加者に下さるとのこと。運よく私には完成品が当たり、その独楽を今も大事にしている。実際に回すと、まるで止まっているかのように安定して長く回り続ける。
今年の歌舞伎界は襲名披露ラッシュである。中村勘九郎、中村又五郎・歌昇、市川猿翁・猿之助・中車と続いた。中でも猿之助の沢瀉屋一門は6月、7月と2カ月続きで新橋演舞場を満席にさせた。スーパー歌舞伎『ヤマトタケル』は2カ月ぶっ通しの上演となった。
歌舞伎にはその場面はないが、日本武尊が東征の帰り、甲斐の国酒折宮(さかおりのみや)に至った時、「新治筑波を過ぎて幾夜か寝つる」と歌を詠むと火焚きの老人が「日々(かか)並(なべ)て夜には九夜(ここのよ)日には十日を」と下の句を付けた。これが連歌の始まりでこの酒折宮は連歌発祥の地とされている。この歌から連歌のことを「筑波の道」というようになり、最初の准勅撰連歌集は『莵玖波集』と名付けられた。連歌というのは五七五の上の句に七七の下の句をつけ、次の人は五七五、その次の人は七七、と順番に読んでいき、百句でひとまとめとなる「百韻」、三十六句で終わる「歌仙」などがある。この最初の句「発句」だけ取り出したのが俳諧、明治以降俳句というようになった。
熊さん「俳句のできるまでの歴史はよくわかったけど、ガマの油の話はどうなってるんで......」ご隠居さん「筑波が出てきただろう。この筑波山に住むという四六のガマから脂をとるんだよ」熊さん「歌舞伎→ヤマトタケル→筑波→ガマの油ともって来たかったんだろうけど、それなら歌舞伎→天竺徳兵衛→ガマの方が早かったんじゃないの」ご隠居さん「いいんだよ。原稿が足りないらしいから少しでも長くしなけりゃならなかったんだから」