落語と酒⑬『らくだ』
そろそろフグのうまい季節。このごろは大変高いものになっているが、養殖も進み比較的安く食べられるチェーン店も出てきている。しかし、昔から「ふぐは食いたし命は惜しし」というように、毒があるのが玉にキズ。落語『らくだ』では、図体が大きく乱暴者なのであだ名をらくだという男がフグを食って死ぬ。らくだの兄弟分が訪ねてきて発見するところから話が始まる。
らくだは文政4年(1821年)にオランダ船でヒトコブラクダが渡来し、長崎商人に売られ、見世物として大坂や江戸の両国で評判となった。らくだを始めて見た江戸っ子は、その大きな図体にびっくりすると同時に、「何の役に立つんだ?」と思ったらしい。そこで、図体の大きな人や、のそのそした者をらくだになぞらえるようになった。その後10年以上にわたって全国を巡業したので、地方でも広く知られるところとなった。41年後の文久2年 (1862年)にはフタコブラクダが渡来し、翌年の1月2日から江戸両国橋西詰、同4月から浅草奥山にて相次いで見世物に出た。足を三つに追って座ることなどが日本人を驚かしたらしい。押すな押すなの大評判で見料が三十二文(そば2杯分)。それで読まれた狂歌が
「押あうて見るより見ぬがらくだろう百のおあしが 三つに折れては」
文禄の役(1592年)では、朝鮮出兵のため下関に集まった諸国の武士の間でフグを食べて中毒する者が続出、豊臣秀吉はフグ食禁止令を出したという。この禁令は、武家では江戸時代にも引き継がれ、各藩で厳しい罰則が設けられていた。下関のある毛利藩では武士は戦場においてこそ死ぬべきであって、フグであたって死ぬなどということは不忠の極みであると、違反者には家名断絶などの厳しい罰を与えた。
・鉄炮に当り弓矢の家の恥(鉄砲は当たると必ず死ぬという意味でフグのこと)
しかし、庶民は結構自分で料理して食べていたようで、事故も多かったようだ。
・鰒汁を食わぬたわけに食ふたわけ
有名人も結構食べており、俳聖芭蕉は
・河豚汁や鯛もあるのに無分別
と言ってずっと食べずにいたが、ついに食べることになり、
・あら何ともなやきのふは過てふくと汁(「あら何ともなや」は謡曲の文句取り)
という句を残している。かなり恐る恐る食べたことがよくわかる。
フグの毒テトロドトキシンは、餌などに含まれる毒が体内に蓄積されたもので、養殖などで毒をもたらす餌を与えないようにすれば無毒の河豚も可能であるとのこと。佐賀県と嬉野市は地域おこしとして「フグ肝特区」を2004年に申請したが、厚生省は「メカニズムが完全に解明されたとは言えない」として認可しなかった。
フグの毒は神経毒なので、症状としてはまず口や唇にしびれが生じる。呼吸困難から呼吸麻痺が起こり死に至ることが多い。江戸時代は、頭だけ出して地面に埋めれば治るなどの治療法が信じられていた。穴を掘りやすい砂浜に埋めたところ、潮が満ちて溺死したという話もあった。
・死なぬかと雪の夕べに提げて行き
・片棒をかつぐ夕べの河豚仲間(棺桶は2人で担ぐもの)
・臆病は葱ばかり食ふ雪の夜
フグの川柳は命懸けのことを詠んだものが多い。小咄も同じで
・飲み友達が集まって「なんと、鰒(ふぐ)をもらったが、どうも気味が悪くてくえねえ。だれか先に食って見せてくれ」と言っても、誰ひとり、食おうという者がいない。中にひとりの男が言うには「なんと、橋の上に寝ている乞食に、一杯持って行ってやるというのはどうだ」「なるほど、そうして、いい加滅な時分に行ってみて、あいつらが別条なければ、そこでこっちが食おうというものだな。こいつはいい」と、さっそく鰒汁をこしらえ、まず乞食に一杯持っていってやろうと、近くの橋の上へ行き「ナント、おまえたち。鰒汁はどうだ」。乞食「それは、ありがたうございます」「食うなら、ソレ、いれ物を出しなさい」とくれてやって、しばらくして、そっと見に行ったところが、別条もない様子。「サアもうよい」と、みな打寄り、たらふく鍋を空けてしまい、さてうまかった、と楊枝を使いながら、橋の上へ行き、「どうだ。さっきの鰒は、このうえなくうまかった」と言えば、乞食「あなたがたも、おあがりなさいましたか」「ヲヽ、食った食った」。乞食「さようなら、わたくしもいただきましょう」。(ふぐ汁『臍繰金(へそくりがね)』)
こんな危険な魚でも、今と同じようにずいぶんと高かったらしい。
・雪の鉄砲直をきいてびっくり(直=値、鉄砲の音とかける)
・てつぽうのやうにびつくりする値段
小川顕道『塵塚談』(文化11年=1814年)によると、「初物は一尾二、三百文するので貧乏人は思いもよらぬ」とある。鰹ほどではないがかなり高い。
・鰒売りへ女房まけぬように付け(安値をつけて鰒売りを怒らせて、返そうと頑張る)
・鰹では小言鰒ではしかられる(女房にカツオの時は「こんな高いものを」、フグでは「こんな危ないものを」)
このように女房が心配してくれるうちはいいが
・間男は鰒をすすめた男なり
となると事件である。
さて、落語に戻るが、らくだの兄弟分には、葬式をする金もない。そこへ屑屋がやってきたので、これをおどして大家さんのところへ使いに出す。大家さんはらくだが死んだときいて大喜び。兄弟分からの要求である通夜用の酒と料理の提供についてはきっぱりと断る。屑屋は兄弟分に言い含められた通りに「それでは死人(しびと)のかんかんのうをお見せする」。大家「見たことないから見せてもらおう」。
「かんかんのう」というのは明末清初に中国ではやった「九連環」(知恵の輪という意味)という歌が長崎を通じて江戸時代に日本に入ってきて流行した。元歌は以下の通り。
・看看兮 賜奴的九連環 九呀九連環 双手拿来解不解 拿把刀兒割 割不断了也也呦(見てください。あなたに頂いた九連環を。九つよ、九つの輪よ。両手で持ち上げはずそうと思ってもはずれない。小刀で切ってみようか。それでも切れないわ)
これを中国音読みで意味がよくわからずに歌っていたらしい。後に「梅が枝の手水鉢......」などという元歌とは全く違った歌詞をつけたりした。今に伝わっているメロディーが正しいとしたら、かなり覚えやすい曲ではある。
この曲に合わせて死人のらくだを踊らせたというのだから、大家さんもびっくり。酒と料理を用意する。棺桶なども同じようにかんかんのうで脅して各方面に用意させた。屑屋は「ではこれで......」と引き上げようとするが兄貴分は「まあ一杯飲んでいけ」と帰してくれない。お酒を断る屑屋を脅して無理やり飲ませる。ところがこの屑屋、酔うに連れだんだん目が据わってくる。ついには兄貴分との立場が逆転していくところがこの落語の味噌である。
この話は明治になって歌舞伎にもなり、初代中村吉右衛門の当たり役になった。最近では2008年8月に中村勘三郎が屑屋、坂東三津五郎が兄貴分となって、改築前の歌舞伎座を笑いの渦に巻き込んだ。らくだ役の片岡亀蔵もいい演技(?)をしていた。
劇団民藝も先に亡くなった大滝秀治の屑屋役で2009年10月に全国巡業している。大滝はこの演技で文化庁芸術祭(演劇部門・関東参加公演の部)大賞を受賞した。
長い話なので、兄弟分と屑屋の立場が逆転したところで終わりにすることが多い。酒が無くなったと兄貴分が言うと、屑屋の方が「酒屋へ行ってもらってこい! 断ったらかんかんのうを踊らせると言え!」
大ネタだけに、本来の話はさらに、らくだの葬礼がすすむ。剃刀を借りてきて坊主にし、早桶(棺桶)の代わりに漬物樽に放り込んで荒縄で縛り、天秤棒で二人で担ぎ、火葬場に運び込む。しかし、道中で樽の底が抜け、焼き場についたら中は空。死骸を探しに戻る途中、願人坊主が泥酔して眠っているのをらくだの死骸と勘違いし、樽に詰め込んで焼き場に行き、火の中へ放り込む。熱さで願人坊主が目を覚まして、「ここはどこだ?」「火屋(ひや)だ」「冷酒(ひや)でもいいから、もう一杯......」。この地口は現代ではピンと来ないので、ここまでやらないことの方が多い。