落語と酒⑧『二番煎じ』(2012年2月5日)
「火事と喧嘩は江戸の華」といわれる。「華」などとはやしてはいるが、それは他人事である場合に限る。昨年亡くなった立川談志ではないが、自分のところが燃えたとしたら、それは災難である。長屋の住人ならいざ知らず、財産も店もある町内の旦那衆にとっては、火事は心配の元。特に冬の北風が吹く季節は火事が起こりやすいうえ、番太(木戸番。町を区切る辻々に造った木戸の番人)に任せておいては不安が残ると、旦那衆が自ら夜回りに出ることになったというのがこの話の発端である。二組に分かれて回ることになり、先に回った組が主人公となる。
この噺は、江戸で元禄3年(1690年)に出版された『鹿の子ばなし』の中の「花見の薬」という小咄を、上方で夜回りの咄に改作した『軽口はなし』の「煎じやう常のごとく」が大元。上方落語だったものを大正時代に5代目三遊亭圓生が東京に移したといわれる。東海道を一往復してきたわけだ。
夜回りは拍子木を打ち、金棒を鳴らして歩き回る。「火の用心」くらいのことは言わなければ様にならないのだが、うまく言えるものがいない。何人かが試した後、吉原でやったことがあるという辰さんが「〽火のよう~じん、さっしゃりやしょう~」と上手に声を出すことができた。そのほかに色々あったものの、番小屋に戻った一行。寒さしのぎにはこれが一番と酒を持ってくる者もいる。猪鍋を用意した者までいて、これを肴に、土瓶で沸かしたお燗酒で楽しんでいるところへ、廻り方同心が現れる。
江戸時代の警察制度は、南北両奉行所が月替わりで担当する。各奉行所には与力(寄騎とも書く)が25騎(25人)、同心が100人から140人おり、八丁堀周辺に住んでいた。ここまでが幕府の役人である。さらに、同心が自腹で岡っ引き、御用聞きといわれる探索方を雇っていた。なお、目明しというのは関八州での呼び方。関西では手先、口問いなどと呼ばれていた。岡っ引きはさらに下っ引きを雇うこともあったが、江戸の治安はそれだけで守っていたのである。その費用は町内や大名、旗本などからの付け届けで賄っていた。危機管理の顧問のような役割を果たしていたのである。
少ない人数での警察制度だけあって、法令の適用もかなりアバウトだった。よくいえば杓子定規ではなかった。八百屋お七が放火の疑いで捕まった時の奉行は、「その方は15歳であろう」と謎をかけた。15歳以下なら火あぶりにならずに済むからだ。しかし、お七は「16歳でございます」と繰り返し、お宮参りの記録まで提出する。このためお七を火あぶりにせざるを得なくなった。この事件は衝撃的で、井原西鶴が「好色五人女」に取り上げたほか、この1月に国立劇場で上演された河竹黙阿弥の「三人吉三巴白波」でもお嬢吉三は八百屋お七ということになっている。
町内の旦那衆といえども、同心の前には従わざるを得ない。見回りの最中に酒を飲んでいたなどというのがばれたらまずい。一生懸命隠そうとするが、「その土瓶はなんじゃ」と追及される。仕方なく「煎じ薬でございます」とごまかすが、「わしも風邪をひいたようだ。ちょうどよいそれを飲ませろ」。ばれるのを覚悟して飲ませると、同心は「確かに煎じ薬じゃ」。ほっとするのも束の間、「その鍋に入ったのはなんじゃ」「口直しでございます」「うむ、それももらおう」。同心は煎じ薬と口直しを飲みかつ食べ続ける。このままでは全部飲まれてしまうと思い、「煎じ薬が無くなりました」「そうか、身どもはもう一回りしてくるによって、その間に二番を煎じておけ」。
何ともしっかりした同心である。これだけ上手なたかり方は今のお役人にも受け継がれているようだ。