落語と酒⑫ 『蝦蟇の油』
『ガマの油』は、3代目の春風亭柳好が得意としていた演目で、寄席などで彼が高座に上がると廻りから「ガマ、ガマ」「野ざらし、野ざらし」と声が掛かったという。この二つを得意としていた落語家で、今CDなどで聞けるのはこの二つだけである。
30年ほど前、会社の旅行で筑波山の山頂近くに泊まったことがある。この宿の女将さんが宴会の時にガマの油売りの口上をやってくれた。もともとは浅草の奥山で長井兵助(ながいひょうすけ、永井とも書く)が、居合抜きを見せながら歯磨きを売ったり歯の治療をしていたりしたのが、ガマの油を売るようになったという。現在、筑波山ガマ口上保存会がこの口上を伝えており、20代目永井兵助が活躍している。
浅草の奥山は今新しくなって、壁に白波五人男や泥棒が張り付いている江戸情緒あふれる街並みになったが、江戸時代は両国広小路と並ぶ歓楽街だった。浅草寺の本堂の西側一帯である。浅草寺に詣でる人や、吉原に行こうという人が立ち寄った。ここで特に評判だったのが長井兵助の居合抜きと、松井源水の独楽(こま)回しであった。長井兵助は、高足駄に白だすきという目立つかっこうをして、不安定な三宝をいくつも積み重ねた上に乗って、1丈(約3㍍)もある刀を抜いて見せたといわれる。なお普通の刀は刃渡りが2尺5寸(75㌢)程度、柄を入れても1㍍前後である。
・さる人、友だちに出会い「さてさて、今日はおもしろい軽業を見てきた。竹の上を下駄はいて、居合を抜く。手まりを使う。イヤもう、すごいことをする」と話せば、「なんの、それがめずらしいことか」。「そんなら、あのようなこと、してみろよ」と言う。「そのくらいなこと、しないでどうする。おれは、ささ(笹、酒)の上で喧嘩さえする」と言った。(無題「絵本初音森」)
口上の初めに、小さな棗(なつめ)を取り出し、その中に入っている人形を動かして見せる場面がある。そのからくり人形作りの名人として出てくるのが「京都にては守随、大坂にては竹田縫之助近江大掾藤原朝臣」。この竹田近江は和時計の職人でもあり、からくり人形を作るとともに、その人形を見せる興行もおこない評判をとっていた。その二男が人形浄瑠璃の竹本座の座元になった初代竹田出雲である。並木川柳、三好松洛との合作で「菅原伝授手習鑑」を作った人である。これは「義経千本桜」「仮名手本忠臣蔵」とあわせて人形浄瑠璃の三大傑作となり、また歌舞伎の世界に移されて大評判となったもので、いずれもこの3人の作品である。ただ、あとの二つは息子の2代目出雲である。歌舞伎に「けれん」といわれる宙乗り、どんでん返し、早変わり、本水使用などという演出があるが、このDNAはあるいはこのからくり人形あたりから始まっているのかもしれない。
落語では、ガマの油の口上をやってひと儲けした大道商人が、ちょっと一杯やっての帰り道、また両国広小路に通りかかる。まだ人の流れは減っていない。ではもうひと儲けしようと、始めるが、酔っているために間違いだらけ。紙を切って「1枚が2枚、2枚が4枚、4枚が8枚......」くらいまではいいが、「32枚が......」辺りからおかしくなり「64枚が......とにかくたくさんだ」。刀で自分の腕を切って傷口に薬を塗り血が止まるのを見せるところで血が止まらなくなり、「いざお立会い、どなたか血止めを持っていないか」となる。
他人のやったことを与太郎がまねして失敗するという話はたくさんあるが、『ガマの油』では同じ男が酔っ払って失敗する。酔うと気が大きくなって何でもできるような気になるが、実際にはそうはいかないということを肝に銘じておいた方がいい。......誰だ、他人事ではないだろうというのは。