落語と酒⑳『明烏』

『明烏』といえば、八代目桂文楽(自宅の町名から黒門町の師匠とか、口癖から「べけんやの文楽」と呼ばれた)が得意ネタにしていた。文楽が高座にあがると「待ってました、黒門町! 明烏!明烏!」という声があちこちからかかるほどであった。古今亭志ん朝も得意としており、春雨や雷蔵もラジオ深夜便寄席で語っている。

明和3年(1766年)6月、吉原・玉屋の遊女美吉野と、人形町の呉服屋の若旦那伊之助が、宮戸川(隅田川の山谷堀あたり)に身を投げた心中事件があった。それが安永元年(1772年)に新内節の「明烏夢泡雪(あけがらすゆめのあわゆき)」として節付けされ、江戸中で大流行した。文政2年(1819年)から同9年にかけ、滝亭鯉丈(りゅうていりじょう)と為永春水(ためながしゅんすい)が「明烏後正夢(あけがらすのちのまさゆめ)」と題して人情本を刊行。その発端部分を落語にしたのが落語の『明烏』である。

日向屋の若旦那、時次郎は難解な本ばかり読んだり、近所のお稲荷さんに行ってお赤飯を3膳も食べてくるような堅物。父親は「将来、旦那方をご招待してご案内できないようでは商売の切っ先がなまる」と、町内でも札付きの遊び人の源兵衛と多助に、時次郎を吉原に連れて行くよう頼み込む。この時に帰宅した時次郎を説得する父親の話が面白い。吉原での遊び方の伝授ともいえるし、当時の商人の遊びについての考え方がよくわかる。ただ、今や吉原はなくなっているので、聴いているお客も時次郎と同じように吉原のことは知らない。この部分はそういうお客への吉原案内、事情説明にもなっている。

ここでお酒の飲み方の説明がある。「中継ぎをするから、そこでお酒を飲むことになる」「私は飲めませんのでお断りいたします」「そんなことしちゃあいけない。一杯は付き合って、残りは飲んだふりして盃洗(盃をやり取りする際に洗う水の入った器)に空けてしまえばいい」。今は盃洗が出てくる場面はほとんどないので、この手は使えない。しかも、無理に飲ませる人もいなくなっているので、あまり役に立たない教訓となってしまった。父親の教育はまだで続く。「時間がきたら手をたたいて会計するなんてのはいけません。はばかりに行くふりをして階段を降り、勘定を一手で済ましてしまうんだ」「手帳に付けておいて後で割り前を頂戴するんで?」「とんでもない。あの二人は町内の札付きだ。割り前を取ったら後が怖い」。父親は商売上のお付き合いのし方を教えるのだが、若旦那のほうはいざ当の二人に会った時にすべてしゃべってしまう。

そんな堅物の時次郎に対して、二人は「お稲荷様にお篭りしよう」と吉原へ連れて行く。途中、土手八丁や見返り柳、大門(おおもん)などの案内をしながら、吉原の中に入っていく。時次郎はまだお稲荷様だと思っているので、お茶屋にも先に連絡を取り、女将にお巫女の家ということにしてくれと頼んでおくお茶屋まではよかったが、大見世に移れば一見して女郎屋だとわかり大騒ぎ。一人だけでも帰してくれと泣き出す。二人は説得するが若旦那は聞こうとしない。そこで「来る時に大門の横の番所で見張っている人がいたのを見たでしょう」「気がつきませんでした」「ああ見逃したんだ。これがどんな格好の何に組が通ったと手帳に書き留めているんです。一人で帰ろうとしても、大門のところで『三人で入ったものが一人で帰るのは怪しい』と止め置かれます」と脅したりすかしたりして何とかお床入りまで持っていく。

さて翌朝、二人は全くもてず、歯を磨きながら若旦那の様子をのぞきに行く。若旦那はすっかりもてて帰ろうとしない。二人が先に帰ると言うと、若旦那。「帰れるものなら帰ってごらんなさい。大門で止められます」

 吉原はお歯黒溝(おはぐろどぶ。歯を黒く染めるお歯黒のように真っ黒な水で覆われていたという)という堀で囲まれ、出入り口は1か所しかなく、そこが大門である。「四郎兵衛会所」という番所があり、吉原内の自治警察のような約割りを果たしていた。遊女の逃亡を防ぐのが主な役割といわれているが、武士や町人といった身分制のない吉原を外部からの干渉を防ぐ意味もあったという。自治警察なので郭内で問題が起きた時には活動を始めるが、「手帳に書き留めて......」などということはもちろんしない。最近、NHK総合テレビで放映された「吉原裏同心」で四郎兵衛会所も知られるようになった。

 吉原はなくなり、このような接待はできなくなったが、焼酎を飲むふりして水を飲んだり、ウイスキーの水割りを飲む代わりにウーロン茶を飲んだりという方法は今でも活用できる。最近はノンアルコールビールも販売されているので、下戸にはありがたい世の中になった。しかし、飲兵衛にとってはちょっぴり住みにくくなったような気もするが......。

 ・昔からだます工面に酒が入り

 ・役人の堅いのにいは舟に載せ