落語と酒㉑『うどん屋』

江戸っ子は蕎麦好みで、うどんのことを「あんなメメズ(ミミズ)みてぇなもん食えるか」とバカにしていた。風邪でも引いた時くらいしか食べないうどんがテーマになっている江戸落語は珍しい。それもそのはず、この噺は大阪で「風邪うどん」として演じられてきたものを、明治期に三代目小さんが東京に移植したもの。その後、高弟の四代目小さん、七代目可楽を経て、音曲師の柳家小半治から人間国宝の五代目小さんへと受け継がれた。三代目小さんは、夏目漱石が『三四郎』の中で「小さんは天才である。あんな芸術家はめったに出るものじゃない」と誉めたほどで、とくにこの『うどん屋』はうまく、他の噺家が高座にあげることができなかったという。五代目小さんも同じく、他の噺家は遠慮して演じる事は少なかった。5代目小さんの枕は、まずは屑屋から始まる。大きな声で呼ばれた時より、小声で呼ばれた時の方が大きな利益が出ることが多いという伏線を張る。次いで、夜鳴きそば売りの場合、小声で呼ばれた時には、大店の丁稚たちがこっそりと夜食を取るなどで、総仕舞いがありうるなどと、小声が商売の上で重要である事が語られる。
江戸時代のはじめは、江戸でもうどんが中心だったが、中期ころから蕎麦切りが増え、夜鳴きそば、あるいは夜鷹そばといわれるソバの担ぎ売りも増えた。
・夜鷹蕎麦、夜中時分、内の戸をたたく。「コレ嚊(かかあ)、開けてくれ」「こなたはもう帰らしゃったか」「イヤ、腹が減ってならぬから、飯を食いにもどった」女房「お腹がすいたならば、なぜ荷の蕎麦でもまいらぬ」「そういっても、きたなくて食えるものか」。(夜鷹蕎麦「再成餅」)
 現在の屋台のラーメンとそう変わらなかったようだ。大店の丁稚たちに限らず、若い連中は夜遅くまで話し込んだりすると小腹がすいてくる。
・若い衆、大勢寄合って夜噺。「サア今夜は、蕎麦切りにしようじゃあるまいか」「ヲヲそれはよかろう。何でも蕎麦を奢(おご)るなら、今夜はこの内での色男に買わせようではないか」と言えば、うぬぼれめが頭を叩いて、「これは迷惑」。(己惚(うぬぼれ)「聞上手二編」)
さて、江戸で鍋焼きうどんがはやったのは明治以降のこと。明治13年(1880年)東京・新富座で初演の河竹黙阿弥作『島鳰月白波(しまちどりつきのしらなみ)』のなかのセリフに、夜鷹そばの売り手が少なくなって、鍋焼うどんが増えているとの夜そば売と客とのやりとりがある。また、明治14年12月26日付読売新聞には「近ごろは鍋焼饂飩が大流行で、夜鷹蕎麦とては喰ふ人が少ないので、府下ぢう(中)に鍋焼饂飩を売る者が八百六十三人あるが、夜鷹蕎麦を売る者は只(たっ)た十一人であるといふ」とある。明治維新後、薩長土肥など新政府の関係者を中心に、西国の人間が大量に東京に流入したことなどが原因であろう。
『うどん屋』では、冬の寒い夜、鍋焼きうどんを売る屋台に酔っ払いが声を掛ける。湯を沸かしているのに当たらせてくれという注文に、うどんを食べてくれるという期待を持ったうどん屋は快くお相手をする。酔っ払いはたった今出てきた仕立て屋のミイ坊の婚礼の話をし始める。酔っ払いの常として、何度かの繰り返しの後、水を欲しがる。うどん屋が「お冷ですか」「いや、水だ」「水のことをお冷と言います」「確かにお冷っていうんだな」とくぎを刺しておいてから、「長唄の勧進帳で『鳴るは瀧の水』というのがあるが、あれは『鳴るは瀧のお冷』と言うのか」。
11月の歌舞伎座で、市川染五郎が初の『勧進帳』の弁慶をやり、父親の松本幸四郎が関守の富樫、叔父の中村吉右衛門が義経、息子の松本金太郎が富樫の太刀持ちをやっていた。幸四郎は弁慶を16歳からやっており、染五郎はもっと早くやってもよかったのだが、41歳にしての満を持しての弁慶だっただけに、見応えは十分であった。「鳴るは瀧の水」が出るのは、義経一行が関所を通る許可をもらってから、富樫が引きとめたお詫びの意味も込めて一献差し上げたいとお酒を勧め、弁慶がそのお礼に延年の舞を舞う場面。たしかに、ここで「鳴るは瀧のお冷」では締まらない。
弁慶は、「鳴るは滝の水。日は照るとも絶えずとうたり」の「とうたり」を受けて「疾(と)く疾く立てや 手束弓(たつかゆみ=手に握り持つ弓)の 心ゆるすな関守の人々 いとま申してさらばよとて 笈(おい)をおつとり肩に打ちかけ 虎の尾を踏み 毒蛇の口を 逃れたる心地して 陸奥の国へぞ下りける」という長唄に合わせて舞いながら、義経と四天王を先に行かせる。そして幕の閉まった後、花道での跳び六方で揚げ幕に引っ込む。
11月の午前の部の『寿式三番叟』で「鳴るは瀧の水」が出てくる。翁と千歳が出てきて「とうとうたらりたらりら......」との浄瑠璃が終わった後に出てくる。もともとは能の『翁』を歌舞伎に持ち込んだものなのだが、その元歌は今様であったといわれている。江戸時代の人々は歌舞伎や能を通じて、こういう歌を皆知っていたのだ。
『うどん屋』の中の酔っ払いの「お冷」講釈はまだ続く。「『淀の川瀨の水車』を『お冷車』と言うか」とくる。これは江戸時代に築城された淀城にあった大型水車のこと。城の西と北側に直径8間(約14㍍)と6間(約11㍍)という大きな水車があり、二の丸や西の丸の庭の池に水を取り入れていたという。「淀の川瀬の水車、だれを待つやらくるくると」と歌われた。ちなみに、淀君が住んでいた淀城は、関白秀次が高野山で切腹した後に取り壊されている。江戸時代の淀城より500㍍位北にあった。
酔っ払いはさらに、「『お冷に流して』というのがあるか、『お冷かけ論』というのがあるか」と追及する。そのあげく水を飲み、うどんも食わずに行ってしまう。がっかりしたうどん屋は道を歩きながら呼び声を上げるが、おかみさんに呼ばれ「子供が寝たばかりだから静かにして」と注意されるなど、ろくなことがない。そこへ小声で呼ぶ声がする。ひょっとしたら大店の「斥候」ではないかと期待してうどんを作る。客はうどんを食べるが、その食べ方がうまい。うどんを食べるのとそばを食べるのとを演じ分けるところに人間国宝の真骨頂が現れる。食べ終わった後、客は金を払い、そのあとに「うどん屋さん」と小声で声をかける。うどん屋は期待に胸を膨らませて「ハ~イ」と小声で返事。客は「うどん屋さん、あんたも風邪をひいたのかい」。
この噺の大本は江戸時代の小咄にある。
・娘、格子から顔を出し、小声で「これ、松茸よ」。松茸売りの推量には、「この娘、内証で買う」と思い、同じく小声で、「一ツ三十二文でござります」と言えば、娘、「そなたも、風を引いて居るの」。(小声「近目貫」)
 こんな短い噺をもとに、マツタケからうどんにシチュエーションを変えたり、酔っ払いのクダを巻く場面などをいろいろくっつけたりして、一つの長い落語になっていくのだから面白い。この『落語と酒』シリーズも、いろいろと落語を引っ張り出しては、余計な御託をくっつけて長くしているとのご批判もございましょうが、原稿不足の穴埋めとご容赦をお願いいたします。