落語と酒㉓『長屋の花見』

 最も有名な落語の演目。落語を聞いたことがある人だったら、大抵知っているだろう。私も中学生のころにラジオで聞いたような記憶がある。もともとは上方落語の『貧乏花見』を東京に移し替えたもの。
 話は大家さんから呼び出しを受けた店子(たなこ)たちの話から始まる。「店賃(たなちん)の催促ではないか」といぶかる店子たちはそれぞれどのくらい店賃をためているか話す。「越してきた時から払ってない」「親の代から払ってない」「親の遺言で」......。果ては「店賃て何?」。さらには「店賃? まだ貰ってない」。
結局みんなそろって大家さんのところに出かけるが、用というのは花見のこと。お酒とかまぼこと卵焼きが用意してあるという。しかしよく聞くと、お酒は番茶、かまぼこは大根、卵焼きはたくあんという次第。毛氈と称する筵を担いでみんなで出かけるのが、「猫の死んだのを捨てに行くようだ」。支度ができたら出かけようということになって「御親類の方、お揃いになりましたか」と葬式のようなことをいいながら出発する。
 なんとか花見の会場につき、どこに毛氈を引くかでひと悶着。土手の下の方がいいと主張する奴がいて、理由を聞くと「なんか食べ物が落ちてくるかもしれない」。本物のお酒を飲んでいる周りを羨みながら、「おちゃけ」で一杯始める。中身がお茶なだけに、沢山注がれると怒る奴も出てくる。料理を食べる段になると、「おーい、かまぼこを取ってくれ。尻尾でない方」「このかまぼこは練馬の本場ですか」「かまぼこはお腹にいいんで、毎朝おろして食べています」「歯が悪いんで卵焼きは食べられません。刻んでいただけるとありがたい」などという。こうしたクスグリをたっぷりと入れた後、「誰も酔わないな。月番から酔え」「さあ酔った」「ずいぶん早いな」「酔うのも早いが醒めるのも早い」。無理に誉めようとすると「このお酒は本場ものですね、宇治でしょう」。お腹の具合が今一つという店子に大家さんが「冷やよりお燗の方がよかったか」「いやもっと焙じた方がいい」。挙句の果てに「大家さん、近くいいことがありますよ」「なんで」「ほら酒柱が立っている」。
 江戸落語ではここまでをトントンと演じて終わりにすることが多いが、元の上方落語では、その後、長屋の連中が仲間内でなれ合いの喧嘩をして他の花見客を追い出してそこに居座り、そのお酒や肴を勝手に食べ出す。追い出された方は「金持ち喧嘩せず」で文句も言わない。そこで太鼓持ちが「私ががーんと言ってきます」と角樽(あるいは徳利)を片手に長屋連中のところへ怒鳴りこみに行くが、逆ににらまれて「ヘイ、お酒の御代りを持ってきました」と終わる。
 上方落語では、長屋の連中が肴を持ち寄るが、かまぼこの代わりが「釜底」、つまり釜の底に張り付いたご飯のお焦げ、長稲荷というのが豆腐の「おから」=「きらず」、切らないから「長いなり」。そうめんが実はしょうゆで箸ではうまくはそうめん(はさめない)、卵の巻き焼きが香の物、「鰆の子」もおから、尾頭付きが「出汁じゃこ」という具合で、ちょっと屁理屈の感がある。その代わりと言っては何だが、長屋の連中の服装でいろいろと話を広げている。「お師匠はん、いい着物着てはるな」「実は子供たちが手習の稽古に使った紙」「その白抜きの紋は?」「白い紙を張った」とか、「いい羽織着てはるな」「半襦袢の衿(えり)を外した」「紐は?」「下駄の鼻緒」、さらに「洋服がぴったり身についているな」「裸に墨塗った」「雨が降ったら大変だ」。一緒にいくおかみさんの服装は「上は襦袢で下は風呂敷を巻いたもの。間へ帯を締めた」といった具合である。
 上方では初代桂春團治、六代目笑福亭松鶴、3月19日に亡くなった三代目桂米朝、東京では、五代目柳家小さん、三代目三遊亭金馬、初代林家彦六、十代目柳家小三治など多くの噺家が演じている。上方では桜の宮へ、東京では上野へと出かける。桜の宮は古い神社だが、兵火にあったり洪水に流されたりして創建の時期は不明。豊臣政権以来尊崇をうけ、桜の名所として有名だった。一方、上野は寛永寺の境内とあって、座り込んで酒を飲んだり、高歌放吟することは許されなかったし、日が暮れて入相の鐘が鳴ると門外へ追い出された。
・入相をおつもりにする花の山
・花盛り吹くより鐘は仇なり
今のように席を取って、幔幕を引きまわしての花見は、吉宗が桜を植えさせた隅田川沿いや飛鳥山で行われた。
 長屋の花見は最も庶民の人情にあふれた噺だけに、上方と江戸との違いがはっきりしている。同じ花見でも、昔は地方によって時期もやり方も違っていたに違いない。お酒も昔は地方ごとに特色のあるものが多く、いわゆる地酒らしい地酒がたくさんあった。今は水準が上がっているとはいえ、全国同じようなお酒が多くなった。酒の銘柄より、「大吟醸」「純米酒」といった造り方の違いの方が大きい。お酒もそれぞれの地方の特色を持った味と香りを持ってほしいものである。

 写真は寛永寺境内にある清水観音堂の脇にある秋色桜。井戸端に咲いている桜を見た13歳のお菓子屋に娘お秋が「井戸端の桜あぶなし酒の酔」と詠んだのが、寛永寺の門跡、輪王寺の宮のお目に留まり、お褒めに預かった。この話が江戸中に広まって、お秋はその後も俳句の道に進み、俳号を「秋色」としたことから、この桜は「桜色桜」と呼ばれるようになった。秋色は他にも「雪の朝二の字二の字の下駄の跡」などの句を作ったといわれ、そのお菓子屋は現在三田に移って「秋色庵大坂屋」として繁盛している。桜の方は現在9代目。この咄に関する川柳も少なくない。

・生酔が来ぬと名のない桜なり

・井戸端の桜でお秋名が高し

・井戸端の桜は秋の色が栄え

・井戸端の桜にのこる秋の色

・うららかさ桜の中に秋の色

・吟じざめせぬ秋色の酒の酔い

・桜より娘あぶない年によみ(江戸時代、娘の13歳は初潮が始まり色気が出る年といわれた)