落語と酒㉔『本膳』
6月といえば「ジューンブライド」というように、結婚式のベストシーズン。今ではほとんどの結婚式がホテルで行われ、新郎新婦も一時的にクリスチャンになることが多いが、江戸時代では披露宴は自宅あるいは親類に家ですることがほとんどだった。その多くは内々の人だけ読んで小規模なものだったが、一寸お金持ちになると、家も大きいので親類ばかりでなく仕事などの関係者も詠んだりした大規模なものもあった。披露宴のご馳走も、予算によっていろいろであったが、正式なものは「本膳」といい、一の膳(本膳)から三の膳まである豪華なものであった。ちなみに、料理はそれぞれの前にお膳の上に乗せて出すのが普通だった。
江戸時代の普通の食事は、各自専用の「銘々膳」というのがあり、箱形の膳箱にご飯の椀と汁椀、お皿が1枚か2枚、それに箸が入っていた。それぞれに盛ってもらい箱を台にして、その前で食事をする。終わったら洗ってまた箱に入れてしまっておく。畳に座って膳を前に食べていたのが、大正ころから都市部で小家族性が広まり、ちゃぶ台を一家全員が囲んで食べるようになり、第2次大戦後の生活の洋風化に伴って、机に椅子の生活になっていく。我々の子どもの時代にちゃぶ台をひっくり返すとい場面がしばしば見られたものだ。
本膳の形式は室町時代から始まり、江戸時代に完成された。武家の儀礼を伴うもので、いろいろな礼法があり、たとえば、まんべんなく一通り箸をつける、和え物と煮物に続けて箸をつけない、菜と汁をいっしょに食べない、迷い箸をしない......などの規則があった。そこで、めったに食べたことのない人にとっては、本膳に呼ばれて食事をするというのは、たいへん難しいものであった。そこで、例法をよく知っている人のまねをしようとして失敗するのがこの話である。
原話は三国時代の魏の邯鄲淳 (かんたんじゅん) の撰とされる『笑林』。ここでは弔いに行くのに、作法を知らないので知っているものを先頭に出かける。まず、平伏したのはいいが、次の者の足を踏んでしまったのでそんなに前に出てくるなと「ばか」と怒鳴りつけた。次の者はそれが礼儀だと思い、その次の者の足を踏んで「ばか」と怒鳴る。次々と後ろにつないでいって、最後の者はたまたま喪主の近くにいたので、その足を踏んで「ばか」。
日本では『戯言養気集』(元和年間=1615~24年、選者不明)が古い。信濃の国深志の人たちが伊勢参宮に行く時、立ち居振る舞いが難しいので先達(せんだつ=経験豊富なリーダー)を頼んで出掛けた。無事山田につき、振舞いにあずかったが、その半ばに先達が山椒にむせて変な顔をしたところ、みんながまねをした。先達が違うと手を振れば、皆手を振る。口の中が辛いので手水の水を飲んだら、全員が飲んだ。
落語では、或村の庄屋さんの祝言が舞台。村人が招待されたものの誰も本膳の例法を知らないので、手習いの師匠に教えを請う。一人一人を教えている時間がないので、自分のすることを真似するようにと言って、いよいよ本番。途中までは無事に済んだが、お椀の汁を吸うのに一口で全部吸ってしまうものが出たりする。平椀では蓋をあけると中には里芋の煮っ転がし。箸で掴もうとしたところ滑ってお膳の上に転がってしまった。掴もうにもうまく掴めないのでぐさっと突き刺して食べたところ、隣りもその隣もわざわざ里芋を膳に転がし突き刺して食べる。師匠はこの際早く終わらせようとご飯に移るが、先生は鼻が高いうえご飯が山盛りに入っていたので、米粒が3粒、鼻の先についてしまう。隣りも早速ご飯に移り鼻の先に米粒をつける。付けた米粒の数が3つか5つかなどと騒ぎが広がり、先生はこれを制するために隣の男を肘でつつく。これが次々と続いて最後の男、「先生、この礼式はどこへ持っていくだ」。
「学ぶ」は「まねぶ」だというが、何でもかんでもまねをしてもうまくはいかない。武道でも「守破離」とい言葉がある。まずは師匠の言葉をしっかりと聞いて身につけ、それからその形を破り、次いで師匠から離れて自分なりのものを造っていくという意味である。師匠や先輩の言うことでも、全部そのまま何の疑問もなく受け入れていては、この落語のように笑いものになってしまうので気をつけよう。