落語と酒㉕『もう半分』

『もう半分』は別名『五勺酒』ともいう。普通、居酒屋ではお酒は一合単位で提供される。もっとも一合徳利といっても、実際には8勺くらいしか入っていないことが多い。旅館などでは、普通一升瓶から徳利13本分を取り分けるとのこと。このごろはお燗より冷やで飲む人、冷やで飲む方がいい酒が多くなったこともあり、枡の上にコップを置いて、コップの酒をあふれさせ、枡も一杯になるくらい注いで出す店が多くなってきた。私の行きつけの店の一つでは、枡の下にお皿を敷いてそのお皿も一杯になるくらい注いでくれるところもある。ある店では、5、6人で行くと、1升瓶をどんと置いてくれる店もある。1升瓶単位で売ってくれているのに、自分で注ぐ時に、つい最初は溢れるように注いでしまったりするのは、どうも貧乏性としか思えない。

逆に一合ずつもらうのではなく、半分の五勺ずつお代わりをする人もいる。半分ずつ注いでもらうと、ちょっと余計に注いでもらえるような気がするから不思議だ。五代目古今亭今輔の噺では70歳くらいのお爺さんが、大川端の永代橋近くのある居酒屋に入って来るところからこの噺は始まる。古今亭志ん生ではお爺さんの年齢には触れないが、場所は千住のヤッチャ場そばの注ぎ酒屋。

志ん朝の噺では65~66歳、小三治の噺では55~56歳くらいのお爺さんなどとなっている。「17歳の娘が吉原にその身を売って五十両という金を作った」とある。一般に吉原の女郎は15~16歳くらいで買われてきて、18歳から28歳の約十年間遊女として働き、その後年季明けとなって自由になるか、遣り手として引き続き吉原で働くこともできた。その身を買われたという以上、その娘はせいぜい22歳くらいまでだろう。その父親となると、遅い子供だとしても、小三治の55~56歳というのが筋が通る。ただ、この年齢でお爺さんと呼ばれるのは現在の人には納得がいくまい。

 江戸時代の平均年齢は30歳くらいといわれている。これはあくまで零歳平均余齢としての話で、乳幼児の死亡率が高かったため。20歳の平均余齢ならば50歳前後だったとのこと。織田信長の好きだった幸若舞『敦盛』の一節である「〽人間五十年 化天のうちを比ぶれば 夢幻のごとくなり」というのは、当時の人たちの実感であった。だから江戸時代の人は40歳くらいから隠居して好きなことをするのが人生の希望であった。そういう中でのお爺さんと、現在のように男の零細平均余齢が80歳近くになっている時代のお爺さんとは全くイメージが違っていても不思議ではない。

 さて、そのお爺さんが「もう半分、もう半分」とかなり飲んでから出て行った後に、風呂敷包みが残っていた。中身を確かめると五十両もの大金が入っていた。一両がどのくらいかはいろいろな説があるが、10万円とすれば500万円ということになる。居酒屋の亭主は追いかけて返そうとするが女房はそれを止め、ねこばばすることにする。お爺さんが戻ってきて忘れものがあったはずだというのを、知らぬ存ぜぬで押し通す。お爺さんは事情を話して、ぜひ帰してくれと頼むが、夫婦は「ないものはない」と突き放す。全てを失ったお爺さんはそのまま大川に身を投げる。

 五十両を元手に大きな居酒屋をはじめた夫婦に子供ができた。ところが生まれてきた子は髪の毛は真っ白で身を投げたお爺さんそっくり。それを見た女房はそれを見てショック死。亭主は乳母を雇うが、どの乳母も長続きせず、訳も言わずに辞めてしまう。何人か目の乳母が、それなら一緒にというので、赤ん坊の部屋に泊まることになった。夜も更けて軒下三寸下がるという丑満つ時、赤ん坊が起きだして行燈の方へ這っていく。そして行燈の油を茶碗に移して飲み始めるではないか。亭主が「爺迷ったか」と詰め寄ると、くるっと振り向いて茶碗を前に出し「もう半分」。

 原作が三遊亭圓朝とする説もあるが、『文藝倶楽部』(博文館)明治40年(1907年)7月号に掲載されている「正直清兵衛」(五代目林家正蔵口演)が、落ちは別として内容がよく似ている。また、井原西鶴の『本朝二十不孝』巻三ノ四「当社の案内申程おかし」では、油を飲む五歳の男の子が「自分の親は八十両持った油売りを殺して暮らしがよくなった」と口にするようになり、父親はついに女房を刺し殺して自害したという話が載っている。

 このごろ一人で飲み屋に行くのが減り、もっぱら何人かでつるんでいくことが多くなってきた。そんなときには、大徳利とか、デカンタでとか、ついつい大きな瓶で頼んでしまう。十分に飲んだなと思った時に、「まだ半分」残っていることも多く、残すのももったいないので、無理に飲んでしまうことも多い。これからは「もう半分」で頼もうか。「もうはまだなり、まだはもうなり」