落語と酒㉖ 三軒長屋
江戸時代の町人のほとんどは長屋暮らしだった。大江戸八百八町というが、実際には延享年間(1744~47年)には倍以上の1678町あったとの記録がある。江戸の6~8割は武家屋敷、寺社が1割強、町人も1割程度。これだけの街が江戸全面積の1割程度の広さに凝縮されていたのだから人口密度は極めて高く、裏長屋の一部屋は9尺2間(2.7㍍×3.6㍍)、4畳半の畳の部屋に、料理用のへっつい(かまど)、流し、水がめなどを置く土間が付いているだけのものが多かった。井戸、便所、ゴミためは共同で使用した。
この落語に出てくる三軒長屋は、端に仕事師=鳶(とび)の頭の政五郎が住んでおり、真ん中に高利貸しの伊勢屋勘右衛門の妾、その隣が剣術の先生をしている楠運平橘正友という侍。棟割り長屋なので、三軒はほぼ同じようになっている。鳶頭の家には二階があって若い者の寄り合いができるうえ、剣術の先生の方では「お面」「お胴」などと稽古などもできるくらいなので、それから考えても結構広いようだ。小三治も噺に入る前にいわゆる裏長屋とは違うと説明している。なお、剣術の先生の名前は演者によって異なり、5代目古今亭志ん生がこの「正友」を使っているが、3代目三遊亭金馬は「正勝」、6代目三遊亭圓生は「正猛」、柳家小三治は「正国」などとなっている。噺の流れには関係ないので、なんでもいいのだろうが、これによって噺の伝わり方が分かる。楠氏、あるいは楠木氏は、「源平藤橘」の橘氏の流れだという。楠木正成で有名だが、その知略を伝えるという「楠木流軍学」が江戸時代に盛んになり、由井正雪もその流れを汲んでいる。
原話は中国の明代の馮夢龍(ふうむりゅう)撰の笑話本『笑府』巻六殊稟部の「好静」。閑静な生活を好む人がいたが家が鍛冶屋と鍛冶屋の間にあってやかましくてしょうがない。「この2軒が引っ越してくれたら、一杯おごってもいいんだが」と常々言っていた。ある日2人の鍛冶屋が一緒にやってきて「この旅引越しすることになりました」。「いつ」と聞けば「明日」とのこと。大喜びで酒を振る舞った後「どちらへ?」と聞くと「私はこの人の家へ、この人は私に家へ」。
噺は鳶の頭の家から始まる。頭が寄合に出て留守の間、姐さんのところに若い者がけんかの仲直りに2階を貸してほしいとやってくる。この噺は長いので、上下に分けて演ずる場合は、けんかのいきさつ、仲直りさせるまでの、頭の家でのいろいろで前半とすることが多い。一人の演者が2回に分けてすることが多いが、別の演者がリレー式に演ずることもある。
酒肴を運び込んで手打ちをして飲んでいると、下を隣の妾が通る。うらやましがっても、金のない若い者にはどうしようもない。そこへ今度は下女が通りかかるが、若い者たちはさんざんにからかう。下女は泣きながら妾に訴え、妾は伊勢勘に訴える。伊勢勘はこの長屋は「家質(かじち)」にとってあり、もうすぐ流れることになっている。そうなれば隣の2軒を追い出して建て直すからしばらく我慢しろと諭す。下女はこれを得意げに触れまわり、これが頭の姐さんの耳に入る。頭が寄合に出たまま3日間帰ってこないので、姐さんがイライラしているところに頭が帰ってくる。訳を聞いて頭は剣術の先生の所へ行き、密談をする。翌日、まず先生が伊勢勘の所へ行き、引越しのためにお金がいるので「千本試合」をする。真剣勝負になったりして危ないから家から出ないようにしてほしいと言う。伊勢勘は「そんな危ないことをするなら費用を差し上げましょう」と五十両渡す。先生が帰ると入れ替わりのように頭が現れ、やはり引越しの費用調達のために「花会」を開くので、けんかになったりして騒がしくなるから外に出ないようにと頼みに来る。
花会というのは博打の会のことで、この花会の酒の出し方が面白い。酒樽の鏡を抜いて柄杓を5、6本放りこんでおき、呑みたい奴が手酌で飲む。肴も、魚河岸からマグロを何本か買ってきて、まな板の上に出刃庖丁と一緒に置いておき、食べたい奴が勝手に切って、醤油を浸けて食べる。こんなパーティーをやってみたいものだ。40年ほど前、亡くなった前妻との結婚式披露パーティーの際、茨城県の山中酒造店から『一人娘』の四斗樽をいただいた。立食、会費制でやったので百人以上の方がおいで下さったが、樽の半分も空かなかった。残りは、そのころはまだペットボトルなどなかったため、会場の皆さんにと置いてきてしまったが、今考えると惜しいことをしたものだ。